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一、平安京と宇治
「宇治川・宇治橋・網代(あじろ)」と古来より景勝の地として名高かった宇治は、七九四(延暦十三)年の平安遷都により、歴史の中でそれまで以上に重要な役割を演じるようになります。従来は奈良から山城・近江・北陸への交通
の要衝であった宇治は、平安遷都により交通の要衝という意味はやや薄れたものの、平安時代初期の喜撰(きせん)法師が、
「わが庵は都のたつみ(巽)しかぞすむよを宇治山とひとはいうなり」 と詠んだように、都が奈良にあった時代と違い、「都の巽(東南)」に位
置し、距離的にも、精神的にも身近な存在となります。 当時の京都と宇治との往来のコースをたどってみると、陸路と水路とがあり、陸路の場合は九条河原を経て伏見深草、大亀谷へ、そして六地蔵から宇治橘へというのが最も一般
的なルートです。一方、船での場合は七条や九条辺りから鴨川を船で烏羽へ、さらに宇治津にというコースが多く用いられています。
交通の便利さと、時代を追うごとに貴族たちの間で評判となっていく美しい風景を兼ね備えた宇治は、貴族たちの別
業(別荘)の地として注目されていきます。桓武天皇(かんむてんのう)の皇子明日香(あすか)親王、平安時代初期の文
人として有名であった賀陽豊年(かやのとよとし)、嵯峨(さが)天皇の皇子で光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる)といった人々の別
業が立ち並んでいきます。そして、宇治院とも呼ばれた源融(みなもとのとおる)の宇治別
業をのちにめぐりめぐって藤原道長(ふじわらのみちなが)が購入し、さらには息子の頼通
(よりみち)の時代に平等院となります。 宇治院が平等院となる経過については、少しあとにおくとして、別
業地・宇治は完全に平安貴族たちの生活圏となっていたといえるでしょう。

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二、平安貴族と宇治別業
夏には船遊び、秋には紅葉狩りと別業での貴族たちは、骨休め・遊興に浸っていたといえますが、早別
業は貴族たちにとってくつろぎの場であるとともに、精神的な安息をえる場所でもありました。別
業には必ずといってよいほど「御堂(みどう)」と呼ばれる持仏堂(じぶつどう)が営まれ、貴族たちは、御堂にこもり、仏と対話して加護を願う時間を持ちました。この宗教的な時間を過ごすということも別
業生活で大きな比重をもち、宇治は宗教的な雰囲気をも有する土地となっていきます。
都の生活を公的な、建て前的な世界とするならば、別業での生活は、私的な、本音の世界であったといえるでしょう。都の内裏(だいり)、宇治の別
業、双方が表裏一体となって平安時代の貴族政治の舞台を構成していました。 また、宇治が平安時代の大きな舞台となったのは、単なる別
業地ということだけではなく、平安時代の中頃の、いわゆる王朝時代の政治の牽引車であった藤原氏の別
業があったということが重要な要素となっています。
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三、藤原氏と宇治
1005(寛弘二)年、藤原道長は別業とは別に、宇治木幡の地に、「一門埋骨の所」として浄妙寺(じょうみょうじ)という寺を創建します。
その目的は、権勢揺るぎないものとなった道長が、以後その政権を、代々道長の一族へと受け継いでいくため、先祖の霊の鎮魂(ちんこん)と藤原氏一門の結束をはかるためでした。木幡の地を選んだのには、道長以前の藤原氏と宇治との関わりも深く影響しています。木幡には現在でも宇治三十七陵とよばれる陵墓(りょうぼ)が散在していますが、そのほとんどは藤原氏関係の人のものであり、中には藤原氏の権力の拡大に貢献した平安時代初期の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)や時平(ときひら)の墓も含まれています。
道長は幼い時に父兼家と木幡を訪れ、これらの墓所が荒廃しているのを嘆き、自分が要職につく身分になったあかつきには、是非お寺を建立しようと決心したといわれており、別
業購入後に宇治との往来が頻繁(ひんぱん)となるなかで、幼年期の想いが再び胸にわいてきたのでしょう。そして浄妙寺(じょうみょうじ)は道長の死去してのち、室町時代に至るまで藤原氏の墓所となっていきます。
別業と「一門埋骨の所」が存在した宇治と藤原氏の関係は密接になり、宇治は藤原氏にとって精神的な支えの地であり、特別
な意味を持つ土地となりました。そしてそれにともなって宇治のもつ宗教的な色彩
はますます色濃くなっていき、平等院鳳風堂の建立によって宇治の地は極楽浄土の地と化します。
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四、源氏物語と宇治
都・京都と宇治の関係、平安貴族の代表である藤原氏と宇治の関係、さらに宇治の歴史的風土を物語の舞台として効果
的に使った物語があります。いうまでもなく、紫式部が書いた「源氏物語」です。
「源氏物語」は全五十四帖からなりますが、第四十五帖目の「橋姫」から最終の「夢浮橋」までの十帖部分は特に「宇治十帖」と呼ばれています。「宇治十帖」は大長編小説「源氏物語」の終焉の巻ということになります。
紫式部がなぜ「源氏物語」の終焉として宇治を選んだのか、それは決して偶然にではなく、物語の締めの舞台として意識的に宇治を選んだのです。そのことは「宇治十帖」の巻名にもあらわれています。「宇治十帖」は「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わります。「橋」ではじまり「橋」で終わっているのです。この橋は舞台を都から宇治へと移す「橋」、主人公も光源氏から、その子薫、孫匂宮へとバトンタッチされる「橋」でもあります。紫式部は当時の貴族たちが別
業の往来に頻繁に利用した宇治橋を強く意識していたのは確かです。 また、平安貴族たちにとって身近な場所であった宇治を舞台にすることによって、物語という虚構の世界に臨場感を与えるのに有効な効果
を生んだのではないかと思います。さらに「宇治十帖」では、人間の宿世・業、出家の問題など一挙に物語の主題へと迫りますが、それには、平安貴族たちの本音の場であり、かつ宇治陵・浄妙寺などを背景に、宗教的雰囲気すら漂わす宇治は格好の場ではなかったかと思います。「宇治十帖」では宇治川をはさんで東には都での政権抗争に敗れ、世俗をはなれて隠遁生活を送る宇治八宮の閑寂な庵(現在の宇治上神社付近)が、西には今をときめく光源氏や、その一族が訪れる豪奢な宇治別
業(現在の平等院)が配され、憂愁と雅が対比的に描かれています。この対比は宇治川をはさんで此岸(現世)と彼岸(死後の世界)の対比でもあります。
宇治が「源氏物語」の展開にとって非常に大きな役目を果たしたことは紛れもない事実ですが、反対に「源氏物語」が高い評価を得るとともに、「憂し=宇治」のイメージが固定していったともいえます。その意味では文学という虚が、歴史という実を生んだといえるのではないでしょうか。
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五、宇治の御寺
宇治の御寺 平安時代の宇治のイメージの集大成が平等院鳳凰堂の建立です。父道長より宇治別
業を受け継いだ頼道は、1052(永承七)年に寺を改め平等院と名付けます。頼道十一歳の時です。最初に大日如来を安置した本堂が建立されますが、この本堂は別
業の寝殿が使用されたもので、現在の観音堂がこれにあたるのではないかと考えられています。また翌年の1053(天喜元)年には、阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成します。本尊の阿弥陀如来は当代一といわれた仏師定朝(じょうちょう)の工房で作られ、京都より運ばれています。また阿弥陀如来を取りまくように配されている雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)五十二体も同じく定朝により製作されたものです。
阿弥陀如来は格子窓より、扉が閉ざされていても、仏のお顔が池の向こうからくっきり見えるように工夫されており、最近の発掘調査では、創建時の庭園は宇治川まで州浜(すはま)が敷きつめられ、水は阿弥陀堂の両翼廊(よくろう)まで迫っていたことが、阿弥陀堂はさながら浮御堂(うきみどう)のようであったと思われます。落日の残照が堂舎を照らすとき、極楽浄土を感じなかった人はいなかったでしょう。阿弥陀堂が建立されて二十年ほどのち、次のような歌が巷間で口ずさまれたといいます。
「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ」 極楽というものが疑わしければ、宇治の恩寺にいってごらんなさい、といった意味ですが、頼道は宇治川・宇治の景勝、さらに宇治が育んできた歴史をも借景にして、極楽浄土を見事に具現したのです。
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六、王朝文化の語り部
王朝文化の語り部 平等院が藤原氏の栄華、王朝文化を語る最大の遺構であることは揺るぎのない事実です。しかし、道長の浄妙寺(じょうみょうじ)、頼道の娘寛子(かんし)により白川に建立された金色院(こんじきいん)、そして現在も閑寂たる中に偉容をはなつ宇治上神社と、宇治には王朝文化の足跡がまだまだ残されています。道長の浄妙寺は道長の死後も藤原氏の埋骨所として、室町時代に至るまで宇治と藤原氏とのパイプ役となっており、寛子の白川金色院も従来は室町時代の資料のみがその存在を語るだけでしたが、最近の発掘調査の成果
により急速にその姿をあらわしつつあります。 宇治上神社は、応神天皇の皇子で兄仁徳天皇に皇位
を譲るため自殺したと伝えられる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮・桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)の旧跡と伝えられ、本殿は現存最古の神社建築であり、拝殿は寝殿造りのたたずまいを遺す鎌倉時代の建造物です。
『源氏物語』宇治十帖での主要人物である光源氏の異母弟の宇治八宮(はちのみや)の庵は宇治上神社付近に想定されており、くしくも宇治上神社・平等院が同時にユネスコの世界遺産に登録されたのは、両者の王朝文化の生き証人としての価値の高さによるものでしょう。今なお宇治には、私たちを王朝時代へと誘ってくれる多くの語り部たちが存在しています。
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